2011年 03月 17日 ( 1 )

鬼の首

自分にとんでもないことが起きてしまったとき、われわれはその問題をなんとか解決しようとさまざまなことを試みる。さまざまな試みが効を奏し、解決に向かうならよいが、その試みがことごとく失敗したり、順調に成果を挙げないでいるとわれわれは敵を探すようになる。「あいつのせいだ。あいつのせいでこうなった」とか。あるいは、「だから俺は最初からやりたくなかったんだ」なんてことを言い出す。私も、個人的なことで、うまくいかない人生をうらんで他人のせいにしたことがあった。ほかにそのイライラをぶつける先がなかったのだ。だが、そうしたことは何の解決にもつながらないということは自明の理である。人は感情を持っているが、それをコントロールできないときがあるし、そういう「コントロールできない季節」がある。そんな時期に自明の理は自明ではなかったりする。なにかのタイミングで「俺は解決になんら寄与することのない感情の爆発をしていただけだったのだ」と自らを恥じるときがいずれくるかもしれないが、そのときはわからない。

大地震が起きて、さまざま「評論」が飛び交っている。評論というのはもっとも難しい芸術のひとつだと思うのだが、いまこのとき世間で耳にするのは評論というより「敵さがし」と「攻撃」のように思える。原子力発電所の是非は、今ある問題が解決したあとでじっくり真剣に考えればよい。「私の正しさ」をなんとか証明しようと躍起になるのも「敵さがし」とは違うが何か類似性を感じる。

結局、対象が個人の問題であろうが社会的問題であろうが、こうした感情を爆発させて誰かを攻撃するのはきわめてその攻撃する者の個人的な原因によるものなのかもしれない。幸せでないから、満たされないから、誰かを攻撃してそのはけ口にしているとか、私を認めろと叫んでいるのかもしれない。

ドアを開けよう。

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by narihira09 | 2011-03-17 03:12